石工 / 曽我 純一郎

令和5年度認定

昭和45年生 / 神戸市東灘区在住
勤務先:石工曽我のや株式会社

人生の道標ともいうべき石を素材にした作品づくりに全身全霊で打ち込む石工マイスター。神社仏閣から一般の邸宅までいかんなく才能を発揮。

受賞歴

  • 石材施工・石材加工作業1級
  • 石材施工・石積み作業1級
  • 石材施工・石張り作業1級
  • 1級エクステリアプランナー
  • 1級土木施工管理技士
  • 神戸市優秀技能者賞 受賞
  • 兵庫県技能顕功賞 受賞
  • ひょうごの匠認定
  • ものづくりマイスター認定

幼少のころから石を細工する仕事を目指し一筋に精進してきた石の匠。日本の風土や慣習、文化にも精通し、御影の工房で石と向き合う姿には聖人の赴きさえ感じさせられる。


「六甲おろし」で有名な御影の地は、3世紀に第14代仲哀天皇の后・神功皇后が三韓出兵の折りにここで休憩し、清らかな泉を鏡のようにして自身の姿を写したことから御影との地名が生まれたところ。この地名を冠した本御影石(花崗岩)を産出した六甲山の麓で石工として腕を振るうのが曽我純一郎さん。
「父は男5人兄弟のうち4人が石を扱う仕事に従事するという家系でした」 と語る純一郎さんが生まれたのは伊賀上野城のお膝元・三重県伊賀市。石と取り組む父の背中を見て育つ。小学校6年生になった時、彼が書いた作文が伊勢新聞に掲載された記事の切り抜きを見せてもらった。しっかりした文章で次のように記されてあった。 「ぼくのお父さんは石屋です。ぼくもお父さんのあとをついで石屋になろうと小さい時からきめている」
義務教育終了後、高等教育も受けた方が良いと考えて、愛知県豊田市のトヨタ工業高等学園に進学。幼少のころからの夢を諦めることになる純一郎さんだったが、同校で学んだ製図や溶接などの技術が後々役に立つ。卒業後は世界に知られるトヨタの一員となり、石とかけ離れた人生を歩むこととなった。


5年ほど自動車製造工場に勤務して一人前の社会人になったころ、神戸・御影で石材業を営む伯父から誘いの声がかかった。
「やっぱり石屋にならんか?」
この一言がきっかけとなり、子供の頃からの夢を思い起こした純一郎さんは再び石の道を志す。石の三大加工産地のひとつである愛知県岡崎市に移り、小林繁三郎師匠のもとで石工の修行を始める。厳しい修行も終わりが見え、神戸の伯父のもとに拠点を移して石工として頑張ろう、と決意を新たにしていた平成7年1月、阪神・淡路大震災が勃発。修行期間は予定通り3月に終わり、まだ震災復興ままならぬ神戸へと移り住んだ。
御影の語源となった「沢の井」も震災で破壊されていたが、これが曽我さんにとって大きな活躍の場を与えられることとなる。翌平成8年、由緒ある史跡を復元しようという機運が高まり、栄えある修復チームの一員となって沢の井を再び豊かな泉によみがえらせた。平成9年にはその価値が認められ、「神戸市地域史跡」の第1号となった。
令和2年、「文化財をそのままにしておくのは惜しい」と地域の人たちの運動が活発となり、再び曽我さんが才能をフルに発揮することとなる。八幡神社の祭神の母ゆかりの泉にふさわしく神社のように崇高な空間に仕上げ地域住民の憩いの場として生まれ変わらせたのであった。
「六甲山麓という本質をわきまえて働かせてもらっただけのことです」と謙虚に語る曽我さんだが、荘厳な空間といい庭園の造りといい、彼の技量を集大成した結果と言っても過言ではない。歴史文化事情にも詳しい彼は、江戸時代後期に北前船航路で活躍した豪商・高田屋嘉兵衞の廻船問屋跡に「高田屋嘉兵衛 本店の地」と銘打つ顕彰碑を兵庫区西出町に建てている。

全国的にも価値ある御影石の地で過ごせる喜びを認識してもらおうと長年地元の小学校で本御影石の歴史や御影石加工体験を指導するなど社会貢献も。 「私自身が小学6年生の時に石屋になりたいと決めていたように、今の子供たちに将来の夢を持つヒントにしてもらえたら」
長男の祥吾さんが純一郎さんの弟子として石を見極め、石を叩き、磨きをかける頼もしい作業ぶりの一方、従業員にも惜しみなくノウハウを伝授するなど後継者の育成にも熱心。
御影霊園の工房で信念を持って石と向き合う姿には聖人の赴きさえ感じさせる曽我さんである。